寧夏の家庭料理――「ちぎり麺」
 私は東北地方の出身で、3歳半の時、両親の転勤で家族と一緒に吉林省の吉林市から寧夏の銀川市にきた。小さい時から結婚するまで(大学時代の4年間を除く)ずっと祖母がつくった東北料理を食べて育ってきた。家庭で作られる東北料理の代表的なものは餃子で、また、「小鸡炖蘑菇」(鶏とキノコや干し野菜の煮物料理)や「白菜やじゃが芋と豆腐の煮物」という煮込み料理がほとんどであった。「猪肉炖粉条」(豚肉と春雨の煮物料理)は東北料理としてテレビドラマによく出てくるが、残念ながら、筆者は回族なので、この料理を食べたことはない。

 寧夏料理は西北料理の系統に属する。西北人は麺類が好きで、いろんな麺が作れる。寧夏の家庭料理は何だと言われると、きっと「ちぎり麺」という答えがほとんどだろう。そして、寧夏人は自分の妻を褒める時に、「家内がつくったちぎり麺は美味しいぞ!」という言い方で表現する。また、東北人が友達を家に呼ぶ場合は「家にきて、餃子をご馳走する」と言うが、寧夏人は「家にきて、羊肉のちぎり麺をご馳走する」というのである。
 昔の寧夏人はお茶碗を持って、家の外で食べる習慣があった。小学校時代、放課後家に帰る途中、寧夏人が多く住んでいる大きい庭を貫く近道をよく通りぬけた。「なぜ外でご飯を食べているのだろう」と思い、好奇心から、彼らの食べているご飯をこっそりとのぞいた。お茶碗にはラー油の赤色と韮の緑色が目立っており、特にラー油の香りがした。「なんだろう、美味しそう!」と思って、寧夏出身のクラスメートに聞くと、あれはちぎり麺だと教えてくれた。とても食べたかったので、その後、祖母が寧夏出身の人に作り方を教えてもらって、ちぎり麺を作ってくれた。東北出身の祖母が作ってくれたちぎり麺は、味がどうだったのかは別として、見た目は外で食べていた人たちのちぎり麺と違ったが、どちらにせよ、あれから家ではちぎり麺を時々主食として食べるようになった。しかし、本番の寧夏ちぎり麺はどういう味か分らなかった。

 祖母の御蔭で結婚するまで一度も炊事したことはなかった。結婚後、母に「自分でご飯を作りなさい」と言われ、炊事の練習をしようと思っていたところ、妊娠した。すごいつわりで、大変苦しかった。食べたらすぐに吐き出して、お腹の中には何もないから、全身だるくてベッドで寝ているしかなかった。体力を維持するために病院に行って、ブドウ糖の静脈注射をしてもらった。ある日、隣の家からすごくのいい香りが漂ってきて、私は思わず、「隣のご飯が食べたい!」と主人に言った。「隣は寧夏人だよ、ちぎり麺の匂いだ!」主人は匂いで分かった。主人は「食べたいなら、一碗もらってくる」と言ったが、「恥ずかしい!良くない!」私は言った。その時は、ちょうど中国が改革開放したばかりで、やはり計画経済の下での定量供給(一人当たり、月13キロの食糧と250グラムのサラダ油、年500グラムの砂糖と10尺の布が票証と引き換えに供給された。つまり、票証時代)を実施した時代に当たり、外の家のご飯をもらうのは大変失礼なことだったのだ。「でも、やっと食べられるものがみつかったんじゃないか。食べさせてあげないと、赤ちゃんの目が赤くなるぞ!隣の人には糧票(食糧券)をあげる!」と、主人は半分冗談半分真面目に言いながら、隣に行った。しばらくすると、小さい時に見た寧夏人が食べていたようなちぎり麺が目の前に現れ、スープの上に漂っている香りのいい赤いラー油、緑の韮と香菜、白い豆腐がまず目に入った。食欲が湧いてきて、すぐに食べ始めた。口に入れると、さいころに切った大根とじゃが芋や羊の肉もあり、ちぎって作られた小さい四角い面はとてもコシがあって、何と美味しいものだろう!と思った。一息に食べ終わって、「よかった。やっとお腹がいっぱいになった!」と大満足した私だった。「明日、また隣へちぎり麺をもらいに行くぞ!」二人とも笑った。つわりの真っ最中でのちぎり麺は私が生まれて初めて食べた最高に美味しい麺で、私の命を救ってくれた!今から30年も前のことであるが、今でもやはり、はじめて食べた寧夏のちぎり麺の美味しさが忘れられない。

 現在、経済発展のおかげで、銀川市はいろいろな麺屋さんができて、「蘭州ラーメン」や「山西トウショウ麺」、「新疆ラーチョウズ」、「四川タンタン麺」、「朝鮮冷麺」など何でも取り揃えられている。しかし、どの店の麺も、私が30年前に食べたちぎり麺ほどの美味しさはない。もしかしたら私の先入観かもしれないが。(郭迎麗)

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