1.成立50周年を迎える寧夏回族自治区

1.成立50周年を迎える寧夏回族自治区
北京週報専家  清水 由実

 寧夏回族自治区は今年10月25日に自治区成立50周年を迎える。この節目の年、ちょうど北京五輪大会の聖火リレーを目前 に控えた6月18日から27日まで現地を見て回った。50周年の祝賀式典は9月23日の銀川解放記念日に行われるが、その準備は 着々と進められており、各地で50周年を祝う垂れ幕などがすでに用意され、あちこちで道路の補修工事や建物の改装工事が進 んでいた。
 寧夏回族自治区は中国西北部の黄河上流域に位置し、東は陝西省、北は内蒙古自治区、南は甘粛省と隣接する。610万2500人 (2007年末現在)という人口は、ほぼ千葉県の人口に相当する。このうち35.76%の218万2300人が回族だ。総面積は6万6400km2と、 中国大陸部の直轄市・省・自治区の中では下から5番目だが、それでも人口がほぼ同じ千葉県の面積の約13倍にあたる。1993年に 友好都市関係を結んだ島根県と比べれば面積で約10倍、人口では約8倍だ。


寧夏回族自治区への入口、銀川駅


 
寧夏の歴史
 寧夏は北部の平原を約400キロにわたって黄河が貫いており、中華文明発祥の地の1つだ。3万年前の旧石器時代にはすでに人類 が生活しており、紀元前3世紀、秦の始皇帝による全国統一後に開墾され、黄河から水を引いて灌漑する水利事業が始まった。
 1038年にタングート族の李元昊(りげんこう)が寧夏を中心として大夏国(後に「西夏」と呼ばれる)を建国、現在の銀川に都を置いた (「観光」欄参照)。その後、元が西夏を滅ぼしたあと、「寧夏路」が設置され、これ以降「寧夏」の名称が使われるようになる。そして、 明代には寧夏衛、清代には寧夏府が設けられた。
  中華民国期になってから1929年に寧夏省となり、中華人民共和国成立後の1954年にいったん甘粛省に編入後、その一部が1958年 10月25日に「寧夏回族自治区」として誕生した。
  「回族」は中国の少数民族の1つ。唐代の開放政策や元代の蒙古軍の征西によって中国へやって来たアラブ系、ペルシャ系、中央アジ ア系の人々がルーツだが、他の少数民族とは異なり、人種や遺伝子的な意味での共同体ではなく、共通しているのはイスラム教を信仰し ている点だ。長い歴史のなかで漢族やほかの少数民族との混血が進む一方、漢族に同化する傾向が強く、イスラム教を信仰し、その戒律 を守っている以外は言語も文字も漢族と同じだ。現在は中国全体で約981万6800人の回族がおり、その22%余りが寧夏に居住している。  その回族の「自治区」としてスタートしてから半世紀。寧夏回族自治区の50年は、一言で言えば「自然および貧困との闘い」であったと言え るのではないか。


厳しい自然条件との闘い


 寧夏は東西に約250キロ、南北に約450キロ、日本と同じように南北に長い地形だ。海抜は平均1000mで山地や丘陵が多く、 総面積の73.2%が山地、丘陵、台地などで占められ、平原は26.8%しかない。さらに同自治区は、西、北、東の三方をそれぞれ テンゲル(騰格里)沙漠、ウランブハ(烏蘭布和)沙漠、モウス(毛烏素)沙漠に囲まれ、劣悪な生態環境と深刻な水土流失に 悩まされてきた。自治区全体の23%近くの土地が沙漠化しており、ここの大量の流沙が北京、天津などの地域へ進入し、アジア 全体の生態系にまで深刻な影響を及ぼしている。気候は典型的な乾燥・半乾燥地帯に属し、春には沙が風に吹き上げられ、夏 は酷暑、秋は早めに涼しくなり、冬は厳しい寒さが長く続く。年間を通じて日照は十分だが雨や雪が少なく、年間降水量は300ミリ 足らずという厳しい気象条件だ。

 北部の寧夏平原は、黄河の灌漑を利用することで相対的に発展が進んでいるが、南部の山岳地帯と中部の乾燥地帯は黄土 高原と沙漠化した草原が全域の59%を占め、生態系が脆弱である。自治区全体の経済総量の90%以上、財政収入の93%以上 が北部地区に集中する一方、国土面積の半分以上を占める南部山間地帯と中部乾燥地帯は土壌が痩せ、水が不足し、工業資 源が欠乏しており、経済総量は自治区全体の10%足らず、財政収入は7%足らずにしかならない。しかし、それにもかかわらず、 42%の人口がここに集まっており、国が貧困救済の重点地区に指定した隆徳県、彭陽県(「環境」欄参照)などの8つの県もみな この中・南部にある。
 
 こうした状況から抜け出すため、中国政府も自治区政府も生態環境の改善に力を入れてきた(「環境」欄参照)。しかし、生態 環境が改善されただけでは人は食べてはいけない。環境を改善する一方で、貧困から脱け出し、経済を活性化させるために観 光振興(「観光」欄参照)や農業の産業化、新型工業の振興などさまざまな試みがなされているが、現在、その1つとして寧東エ ネルギー・化学工業基地と太陽山開発区の建設が注目されている。


沙漠化、荒漠化した地を緑にする努力が今でも続けられている。写真は新たに整備された石嘴山市星海湖の
周辺に植樹された木々。その背後には南北200キロ余りにわたって賀蘭山脈が連なる。



寧東エネルギー・化学工業基地
  2003年に始動し、現在も建設中のプロジェクトで、寧東炭田に依拠する形で石炭、電力、石炭化学工業、新素材の四大産 業が主導する大型の工業団地にしていく狙いだ。大きくは寧東石炭基地、寧東火力発電基地、寧東石炭化学工業基地の3 つからなり、第11次五カ年計画期(2006~2010年)の末期には6000万トン以上の石炭生産能力、600万kW以上の総発電出力、 550万トン以上の石炭化学工業製品の創出を目標にしている。さらに2020年までに石炭生産能力1億トン、総発電出力2600万 kW、送電電力1000万kW、石炭化学工業製品の生産能力を1350万トン以上にする目標を立てている。またここは中国における 循環経済と資源の総合的かつ高効率利用のモデル地区となっており、発電用石炭の消費を300g/kW時以内に抑え、単位GDP あたりのエネルギー消費量を国内業界最先端レベルにする目標だ。そしてまた、この寧東地区および黄河沿いの一帯を開発、 発展させることで経済振興、人口分布などにおける自治区全体のアンバランスを修正しようという思惑もある。

  寧東基地は銀川市東南の霊武市と呉忠市の塩池県、同心県、紅寺堡開発区の4つの市県区にまたがっており、ここで試みよ うとしているのは循環型経済の実現だ。「資源の減量化、再利用、再循環」を合言葉に、経済効率のよい持続可能な発展の道を 探ろうとしている。その柱となるのが石炭採掘における石炭脈石、炭層ガス、立て坑水の総合利用と化学工業における排出ガス、 廃棄物、廃水、脱硫、石膏などの総合利用だ。

  そして、雇用面では基地で3万人の労働者の雇用を実現するとともに、黄河沿いの都市に新たに80万の職場を創出し、中部の 乾燥地帯から50万人の人々を移転させ定住させることを目標にしている。 03年のプロジェクト立ち上げからこれまで5年間で直接 的、間接的に約2万の新たな職場が出現し、効果が徐々に現れ始めているという。
 現在は、重点産業、インフラ、社会事業、環境保護、循環経済などに関わる22項目の計画の立案作業を終えて、建設中もしくは 建設を終えた炭鉱で合わせて年間7000万トンを産出しており、1期工事を終えて操業を始めた火力発電、風力発電を合わせると 寧東基地の総発電出力は230万kWに達している。このほか、基地内の宝豊集団や神華寧煤集団などのグループ企業が石炭から メタノールやジメチルエーテルを生産する試みを行っている。
 この辺一帯は華北、西北、西南地区の接点で、甘粛、青海、新疆、内蒙古などの省・自治区からの通り道という地の利があること、 開発用地が1000平方キロ以上あり、土地開発コストが低いこと、すぐそばを黄河が流れているため取水の便がよいこと、寧東炭田と いう13億トン級の炭田があり化学工業用・動力用として質がよいこと、銀川河東空港や包蘭鉄道、宝中鉄道、建設中の太中銀鉄道 などのほか道路も整備されて交通の便がよいことなどの強みがある。
 道路、鉄道などを含むインフラの整備に伴い、神華集団、華電集団、国電集団などの大企業グループが参入してきており、さらに華 能(中国華能集団公司)、中電投(中国電力投資集団)、中広核(中国広東核電集団有限公司)などの電力・エネルギー大手も最近続 々と戦略提携契約を結んでおり、今後、巨額の資金が投入されることになっている。


寧東基地の最初のプロジェクトとして04年に設立され、既に稼働している馬蓮台火力発電所の背後には広大な開発用地が広がる。


太陽山開発区
  雇用を創出し、生産をあげるための試みの1つとして寧東エネルギー・化学工業基地とともに自治区政府が重点プロジェクトとし ているのが太陽山開発区だ。
 太陽山開発区は寧夏中部の乾燥地帯である呉忠市の塩池県、同心県、紅寺堡開発区の3つの県区が交差するところに建設さ れる。04年にここの開発が提起され、07年に16件の重点プロジェクトが始動したばかりだ。寧東基地が石炭、石炭化学工業を中心 とした工業基地であるのに対し、こちらは新エネルギー、新素材を中心に、より貧困脱却に軸足を置いたプロジェクトにしていくようだ。  
 この一帯には石炭、苦灰岩、石灰石を中心に20種類以上の鉱物資源が埋蔵されていることから、2012年までの生産、採掘目標 をそれぞれ石炭1000万トン、苦灰岩120万トン、石灰石500万トンとしている。
 さらに、この開発区一帯は地形が平坦なことに加え、開発区として計画されている面積が広大であること、東南風と北西風が多く 吹き、平均風速が3.3m/秒で、1年のうち9カ月は風速が毎秒3mを上回るにもかかわらず、強風の日は少ないことなど、風力発電 に有利な条件を具えている。こうした好条件を背景に、07年8月には寧夏で計画されている9カ所の風力発電所の1つである太陽山 風力発電所プロジェクトが正式に始動した。同発電所は最大出力35万kW、総投資額28億元で5期に分けて建設される。第1期分は 定格出力750kWの風力発電設備60基からなり、総発電出力は4万5000kWですでに稼動している。火力発電に比べ、この風力発電に より毎年2万8700トン分の標準炭が節約でき、二酸化硫黄などの排出が削減できる見込みだ。この風力発電所を手がける寧夏発電 集団有限責任公司と日本の三菱重工は、京都議定書に基づくCDM(クリーン開発メカニズム)を活用したCO2排出権の購入契約を締 結しており、三菱重工は08~12年の5年間で約33万トンの排出権を購入する予定だ。さらに三菱重工は同公司に対して1000kW級の中 容量風車の技術供与を行っており、第2期プロジェクトではこの機の導入が検討されているという。
 
 風力発電はクリーンで再生可能、持続可能なエネルギーとして世界中で導入が進められており、世界風力会議(GWEC)の資料によ ると、昨年の世界における総設備容量は06年比27%増の9万4123MWとなった。そして中国は、07年に新たに導入した設備容量が3499 MWでアメリカ、スペインに次いで第3位、総設備容量では6050MWで世界第5位となっている(日本は13位)。 太陽山風力発電所のプロ ジェクトは始まったばかりだが、右肩上がりで導入されている風力発電の担い手として期待されており、今後、陝西、甘粛省などを始め とする近隣の省・自治区への電力供給を担っていく予定だ。


寧夏の利用可能な風力エネルギー資源は500万KW以上。同自治区内にはすでに4ヵ所に風力発電所が
建設されている。写真は太陽山開発区に設置された60基の風力発電設備


寧夏の今後
 今後の主な課題として、自治区政府は農業の現代化、新型工業化、都市化プロセスの推進、成長パターンの転換などを挙げている。  農業では産業化を推進し、枸杞、牛・羊肉のイスラム食品、乳業、ジャガイモ、ウリ科果物・野菜の5つをけん引役として、優良穀物、 淡水魚、ブドウ、ナツメ、農作物の種子生産、優良牧草の6つを地場産業として振興させる、としている。
 民生面では2012年までの目標として、居住環境の改善、生活水準の向上を挙げている。具体的には自治区全域で森林被覆率を16%、 都市部の緑化率を35%、都市部の集中暖房普及率を70%以上、生活ゴミの無害化と汚水処理率を平均80%以上にし、農村では村の緑 化、道のアスファルト化、庭の美化を進める、としている。また生活水準の向上という面ではその数値目標として、都市部住民の可処分所 得1万6500元(年平均伸び率8.7%)、農民の純収入4600元(年平均伸び率7.7%)、1人当たりの総生産2万元超(07年は1万3743元)という 数字を設定している。
 成長パターンの転換という面では、省エネ・排出削減と節約型社会の建設に力点を置き、GDP創出1万元当たりのエネルギー消費量を5 年間で20%低下させる、としている。
  半世紀の時を経て、50年前に比べて格段に緑が増え、貧困からの脱却も果たしつつある寧夏。今後もこの地の沙漠化が食い止められ 、順調に緑化が進んでいくかどうかは、寧夏だけの問題ではなく、近隣の日本はもちろん、世界の自然環境にもかかわってくる大きな課 題だ。「生態保護」と「開発・発展」の両輪をどちらも脱線させることなく、いかに成し遂げていくか、今後も寧夏で続けられる壮大な試みに 世界が注目することになるだろう。

「北京週報日本語版」 2008年9月23日 http://www.pekinshuho.com/zt/txt/2008-09/23/content_153432.htm
 ※この記事は、『北京週報』日本語部の許可を得て掲載しております。

2.”沙漠改造と収入”両立に挑む寧夏

2.“沙漠改造と収入増”両立に挑む寧夏
北京週報専家  清水 由実


  10月25日に自治区成立50周年を迎える寧夏回族自治区。自治区全体の23%近くが沙漠化している寧夏の半世紀は、厳しい自然との闘い でもあった。

流砂防止の決め手「草方格」
 自治区として新たなスタートを切った1958年、包蘭鉄道(包頭-蘭州)が営業を始めた。1954年に着工してから4年の歳月をかけて開通した包蘭 鉄道は中国西北部の幹線鉄道で、内蒙古、寧夏、甘粛の各自治区・省を全長990kmにわたって貫き、そのうち沙漠の中を140km走る「沙漠鉄道」 でもある。
  開通後は、レールや枕木が沙に埋もれないよう、鉄道の両側で防風・防沙対策をとる必要があったが、なかなか適切な方法が見つからなかった。 中国社会科学院沙漠研究所の専門家らが研究を重ねた結果、「草方格」という方法がとられた。これは、麦わらを格子状に沙中に刺し込み、沙丘 に網を張ったような形にして沙を固定し、その中に草の種をまいていくという方法だ。こうして沙の動きを抑え込み、その流動を食い止めるのだ。  その後さらに、その大きさや形などをめぐって研究が進められ、今では、流動沙丘に悩む西北部一帯で広く利用されるようになった。寧夏回族自治 区の区都・銀川市の南にある霊武市の白芨灘国家自然保護区もその1つだ。


1つ1つ手作業で沙漠につくる「草方格」が沙漠化防止に一役買っている



白芨灘(はくきゅうたん)自然保護区と「治沙英雄」
 そのことをすれば何かを生み出せる、成果がすぐに見られる、というわけではない仕事。だが、何十年後、何百年後になってやっと、 その成果が目に見え、そこから多くのものを生み出す結果になる、そんな仕事に、長い長い時間をかけ、愚直とも言える姿勢で取り組 んできた人物がいる。
 白芨灘国家自然保護区は、もともとは一面のゴビ沙漠だったが、今では家の高さほどのモンゴリマツが並ぶ。これは、総面積9万8600 ヘクタールという広大な白芨灘防沙営林場の職員らが50年余りにわたってモウス沙漠の沙地に2万6000ヘクタールもの緑の壁を築いた ためだ。ここの営林場長であり、同自然保護区管理局の党委員会書記兼局長である回族の王有徳氏は、「私は沙漠改造のために生ま れてきた」と語るほど、この道一筋に歩んできた人物だ。1954年に王有徳氏が生まれた霊武市の小さな村は、彼が子どもの頃から沙漠に 呑み込まれていき、村人はみな移転を余儀なくされ、ここに残ったのはわずか数百世帯だったという。1980年代初め、久しぶりに故郷の村 を訪れた彼は、その光景に愕然とする。あたり一面、黄色い沙に覆われ、最後まで残っていた数世帯の塀の根元までもが沙に埋もれてい たのだ。その時、彼は沙漠を改造しようと決意する。折しも1985年、彼は白芨灘防沙営林場の副場長として赴任する。

 それまで植樹の主役であったポプラ、カラガナなどの落葉高木・低木は落葉のあとには防風効果が下がってしまうが、白芨灘営林場のあ るモウス沙漠では、ちょうどその秋冬の季節に風が最も強く、強風に沙が吹き上げられて沙漠整備の成果が台無しになってしまうことがま まあった。これに対して王有徳氏など同営林場の専門家や職員らは、長年の実践と研究から日照りに強いマメ科の沙冬青や花棒、沙柳(ス ナヤナギ)などを植樹・植草に加えるとともに、モンゴリマツやコノテガシワなど38種類の移植を成功させ、沙漠では難しいとされる移植と活着 の壁を乗り越えた。
 また、王有徳氏が赴任した当時の白芨灘防沙営林場は、職員の年収がわずか数百元、1年のうち半年以上は仕事もなく、ほとんどの職員 が転任を望んでいるような状況だった。しかも、春の造林の季節には臨時に人を雇わなければならず、造林コストは上がる一方で、こんな状 態では、当然、沙漠改造も沙漠化防止もあったものではない。  そこで、王有徳氏は改革に大ナタを振るう。まず、事務職員など後方勤務の 職員の削減、次に現場職員の等級に基づく給与体系を能力給に改め、それまでは外部の人を雇って行っていた造林事業もすべて営林場の 職員が自ら行うなど、一連の改革を実施する。具体的には世帯もしくは個人を対象にそれぞれを競わせ、期限付きの緑化契約を結び、賞罰を 明確にするとともに、職員の年末査定や福利待遇を苗木の活着率や保存率、植生被覆率とリンクさせ、積極性と責任感を引き出した。これによ り沙漠改造に対する熱意がこれまでにない高まりを見せ、従来の「やらされる造林」から「やる造林」へと職員の意識が変わった。その結果、造 林事業の達成率は目標を上回って132%となり、苗木の活着率も22%増加した。  一方、公益事業体としての同営林場には財政補助があると は言え、85年当時の補助金は159人の職員に対してわずか15万元。その額は苗木の購入や職員の生活などを補うにはほど遠い額であった。 こうした局面を打開するため、王氏は果樹園や剪定後の枝を使ったヤナギ細工の加工工場、レンガ工場、緑化工事会社などを設立して収入の 道を切り開いてきた。

 こうした数々の努力が実り、この5年間だけでも5300ヘクタール余りの人工オアシスがつくられ、沙漠化を10キロ後退させるという効果をあげる と同時に、職員の平均収入は2万元を超え、85年当時の数十倍となった。 日本からも無償援助や日中緑化交流基金(通称「小渕基金」)に基づ く友誼林造成などのプロジェクトが提供されてきたこの一帯の生態環境は、ここ20年間で大きく生まれ変わり、この期間につくられた「草方格」は 2000ヘクタールにのぼり、07年だけで2320ヘクタールを造林、平均活着率は83%に達した。今ではモウス沙漠の中に東西42キロ、南北10キロにわ たる緑の防護壁が築かれ、中東、アフリカなど同じ砂漠化の悩みを抱える国々からも政府関係者が視察に訪れている。私たちが同保護区を見学 した日にも、たまたまエジプト、モーリタニア、モロッコ、シリアなど9カ国からの視察団が訪れており、ヨルダンの政府関係者は「ヨルダンの砂漠でも さまざまな方法を試みてきたが成功に至らず、ここの成果を参考にしたい」と話した。 7月1日、寧夏回族自治区での聖火リレーを締めくくる最終ラン ナーとして銀川市を走り、点火した王有徳氏。中国のメディアはその姿を「治沙英雄(沙漠改造の英雄)」として伝えた。


気の遠くなるような沙漠整備は今日も続けられている


文字通りの「愚公山を移す。」。現代の「愚公」とも言える王有徳氏の努力は徐々に実りつつある。
アフリカ・中東諸国からの視察団に説明する白芨灘防沙営林場の王有徳場長(中央)



貧困救済地区に棚田
 本来、コストがかさむわりに見返りの少ない生態環境の改善に取り組んでいるのは白芨灘だけではない。 寧夏回族自治区の 最南部に位置する固原市隆徳県は県の総人口の91%が農業人口、同じく南部の彭陽県は92%が農業人口で、両県とも黄土丘陵 の谷あいにあり、年間降水量は最大500ミリ前後、それぞれ総面積の74%、92%の土地で土壌浸食や水の流失があるという典型的 な西北部の貧しい農村で、貧困救済の重点地区に指定された県だ。  
 海抜が1720mから2942mと傾斜地の多い隆徳県では1950年代から60年代にかけて棚田がつくられ始め、7、80年代には毎年約1000 ヘクタールほどの棚田がつくられた。そして90年代に入ると、貧困救済のための特別措置や西部大開発政策が打ち出されたこともあ って棚田の建設は新たな段階を迎える。棚田の建設が荒漠化した土地の緑化と結び付けられ、栽培品種も見直されるとともに、それ まで人手に頼っていた建設が機械を中心としたものへと変わる。2000年以降は国の「退耕還林(草)」(傾斜の激しい耕地での耕作をや め、林や草地に戻す)政策により、一定の傾斜度を超えた急傾斜耕地で耕作をやめ、そこに草や木を植え、隆徳県全体で約1万7000ヘ クタールの急傾斜耕地で「退耕還林(草)」を行った。
 一方、退耕還林の対象とならないところでは棚田建設がピークを迎え、04年から05年にかけての2年間だけで約6600ヘクタールの棚 田がつくられた。棚田の建設にあたっては貧困救済事務室、水利部門、林業部門、農業部門、交通部門などがそれぞれ資金管理、灌 漑事業、植樹・植草、農業技術の指導、道路整備などの任務に責任を負う形で一定のシステムが築かれた。
 水土流失が特に激しい彭陽県でも土壌の侵食と水の流失を食い止めるため、70年代に当時の農業合作社が荒れた山の造林や棚 田建設を進めた。その後、山地の川筋や溝の総合整備が試験的に行われ、試行錯誤を重ねた末、90年代にはより合理的な整備対策 が講じられるとともに、生態系の保全と収入増の両立をはかるべく効果的な棚田建設が進められた。2000年以降には流域整備計画と 投資の規模がふくらむと同時に、退耕還林政策の実施にともない、生態環境の改善に重点がおかれ、山頂には沙棘、カラガナ、ヤマモモ、 山の斜面にはアンズ、河谷にはリンゴ、梨、桃、道路にはポプラ、エンジュなど、それぞれの場所で適切な植物を植え分け、よりきめ細か い造林が進められている。

棚田がつくられる一方、一定の急斜耕地では耕作をやめて林や草地に戻す「退耕還林」が行われている(固原市隆徳県で)

寧夏での「退耕還林」  
 隆徳県や彭陽県で実施された「退耕還林(草)」政策は、植生の回復や荒れた山の緑化および農民人口を減らす目的で1999年以降 中国政府が実施してきた政策だ。8年間を経た07年、耕地面積の減少などの理由で見直しを迫られ、暫定的に停止された。これは、本 来この政策の対象とならない特別保護農地などでも耕作が中止されたためだが、ここ寧夏では2000年から始まった「退耕還林」の対象 となる傾斜度の高い傾斜地が数多くあり、07年現在、約79万2600ヘクタールの耕地や荒地を林にしたり、山での木の伐採や放牧を禁じ て林を保護したりしている。

 寧夏においては「退耕還林」プロジェクトは生態系の保護という側面とともに、「貧困救済」の側面も持っている。「退耕還林」実施後、 それまで天候だけに頼って耕作を行ってきた傾斜度の高い棚田には草や木々が植えられ、農家には棚田の面積に応じて補助金と穀 物などの現物支給がなされ、耕作をやめた農民は都市へ出稼ぎに出ることになった。寧夏林業局の資料によると、寧夏南部の山間地 区では転出した労働力が1999年の延べ30万7300人から05年には延べ56万1000人へ、世帯あたりの年間収入は99年の4107元から05年 には6239元へとそれぞれ増加、6年間で25万人以上の労働力が都市へと流れ込み、農民労働者として現金収入を得たことになる。寧夏 では林に戻すべき傾斜度25度以上の棚田がまだ33万3000ヘクタール余りあり、今後もそこに木や草を植えて林地、草地にする息の長い 生態環境整備が続けられていく。

山中の道にも散水車で水をまき、道路の清掃と育ってきた緑の保護に努めている(固原市彭陽県で)


50年後の寧夏は?  
 寧夏回族自治区にはこのほかにも、自治区北部石嘴山市の賀蘭山東麓に扇形に広がる北武当生態旅游区や星海湖など、環境整 備の成果が目に見えてきている地域が随所にある。北武当ではそれまでゴビ沙漠だったところを1997年から整備し始め、毎年植樹を 行い11年間で1300ヘクタール以上を緑化したという。ゴビ砂漠で木々を活着させることは難しく、1本の木を活着させるため、80センチ四 方の穴を掘って土を換えたあと、植える木の根元に吸水管を埋めるという作業を1日がかりで行うという。


石嘴山市の北武当生態旅游区でも10年に及ぶ努力が実りを結びつつある


  時間を追いかけ、時間に追われる都市生活者には想像もつかないようなねばり強い努力が、沙漠化を食い止めるために、ここ寧夏
の地で今日も行われ、明日も続けられていく。それは全世界で進行する気候変動という地球全体の緊急事態に挑む努力であり、その地
道な努力は将来、必ず大きく報われるときがくることだろう。50年後の寧夏全体が、緑一色のオアシス都市になっていることを期待してい
る。

「北京週報日本語版」2008年9月23日  http://www.pekinshuho.com/zt/txt/2008-09/23/content_153422.htm
 ※この記事は、『北京週報』日本語部の許可を得て掲載しております。


 3.寧夏:ムスリム産業を重点に 

3.寧夏:ムスリム産業を重点に
本誌記者 繆暁陽


中国(寧夏)国際イスラム食品・ムスリム用品祭/寧夏投資貿易商談会の開幕式


銀川国際コンベンションセンター


展示ホール内を視察する指導者たち


 中国の多くの地域と比べ、寧夏回族自治区はこれまでずっと自らを「末っ子」と認識し、地域の広さでは内モンゴル自治区、 新疆ウイグル自治区に及ばず、歴史の悠久さでは陝西省、河南省に及ばず、注目度ではなおさら北京市、上海市に及ばない と自認してきた。世界経済が発展する今の時代、寧夏は自らの名刺にどのようなことを書くのだろうか?

 9月10日から13日まで、銀川国際コンベンションセンターには50余りの国の国旗が揚げられた。海外投資家、他省の商会、現地 企業などが次々と中国(寧夏)国際イスラム食品・ムスリム用品祭/寧夏投資貿易商談会(以下「一祭一会」と略)に参加しに来た。 「開放、友誼、協力、ウィンウィン」というテーマをめぐり、開放された寧夏が更に積極的な姿で、世界に向けて「新しいイメージ、新し い成果、新しい希望」を発信した。


帽子を販売する回族


磁器を販売する回族


切り細工をする回族

 「寧夏は、総面積は小さいが優位性が比較的高く、開発の潜在力が非常に大きく、発展の見込みがかなりあり、投資の条件が 非常に優れている」と寧夏回族自治区の李鋭副主席は「一祭一会」の記者会見で述べた。そして同副主席は、「ここ数年来、寧夏 は西部大開発の歴史的なチャンスをしっかりと捉え、科学的発展観で全局面を統率し、経済成長は9年連続して全国の平均レベル を上回っており、経済社会が持続的に急成長する良い勢いが現れている」と語った。

 農業面では、寧夏には耕地が112万ヘクタール、1人当たり約18.7アールあり、全国でも上位にランクしている。黄河沿いに開ける 寧夏平原は中国の4大灌漑区、10大放牧地、12の商品食糧生産基地の1つだ。エネルギー面では、「第11次5カ年計画」(2006~2010) の期間中に中国は億トン級の石炭基地を13カ所建設することを計画しているが、そのうちの1カ所が今開発・建設中の寧東炭田だ。 観光面では、神秘的な西夏文化、古い黄河文明、濃厚なイスラム情緒、雄壮な大砂漠の風景などが寧夏の豊富で美しい観光資源に なっている。インフラ面では、全区に2万キロメートルの道路が開通し、各市、県(区)はすべて高速道路で接続され、高速道路の密度 では西北地区の上位にある。

  様々な優位性は各地のビジネス客を招き寄せ、今回の「一祭一会」では合計で176のプロジェクトに調印し、総投資額は1389億8000 万元に達し、海外投資額は1249億5000万元になった。これにより寧夏が展示会を開催してから、調印したプロジェクトの投資総額が初め て千億元を突破した。
 
 歴史的な突破を遂げた寧夏だが、中国経済研究所の樊綱所長によると、ここ1、2年から始まった産業移転の過程では、寧夏はインフ ラとエネルギーのコストがわりに低いなどの優位性を具えているものの、市場から遠く離れたところに位置するため、東部沿海部からの 産業移転の競争では劣勢に立っている。

 寧夏回族自治区発展改革委員会経済研究所の樊建民所長によると、寧夏の優位性は、中国唯一の回族自治区で、ムスリム 用品とイスラム食品の面で大きく発展する潜在力を持っていることだ。

 「全世界には57のイスラム国家があり、その人口は約15億人で、世界総人口の1/4を占める。イスラム文化が持つ強みを深く理解 することが寧夏に経済発展をもたらすカギだ」と樊建民氏は強調した。そのほか同氏は、積極的に次の6つのムスリムプロジェクト を建設する必要があると提起した。1、ASEANモデルに習い、中国寧夏国際イスラム国家の会議組織57+1を設立する。民族的アイ デンティファイを通じて寧夏の知名度を上げ、経済発展を呼び込む。2、昆明世博園モデルに習い、中国イスラム博覧園などを設立し、 協力の空間と範囲をいっそう広く開拓する。3、シンボル的で非物質的なイスラム文化遺産を建設する。4、「空のシルクロード」を切 り開く。5、世界に向けてムスリム用品の産業園区を創立する。6、中国のアラビア語人材育成基地を構築する。

 今回の貿易商談会では、寧夏の指導者たちもイスラム文化がはらむチャンスを発見し、寧夏回族自治区政府の李鋭副主席は、 経済のグローバル化は寧夏にとって一つのチャンスで、「一祭一会」を開催する目的は、この交流を通じて、寧夏を対外開放された 総合的なムスリムのプラットフォームとして建設し、寧夏に全面的な経済発展をもたらすことにある、と表明した。

「北京週報日本語版」2008年10月8日  http://www.pekinshuho.com/zt/txt/2008-10/07/content_155808.htm
 ※この記事は、『北京週報』日本語部の許可を得て掲載しております


4.寧夏回族自治区 心誘われる沙漠観光                       

4.寧夏回族自治区 心誘われる沙漠観光
清水 由実

 ♪月の沙漠をはるばると旅のラクダが行きました♪という童謡は、きっと日本人なら誰もが一度は耳にしたことがあるちょっと不 思議な味わいの歌だ。この歌の作詞者の加藤まさを氏は実際に沙漠を訪れたわけではなく、日本の海岸の砂浜からイメージして 歌詞を書いたという。
  日本では「沙漠(砂漠)」と言っても海岸の砂浜や砂丘くらいしか想い浮かばないが、それらはむろん「沙漠」ではなく、温帯湿潤 気候に属する日本には沙漠は存在しない。そのためか、「沙漠」は日本人の想像力をそそり、ロマンをかきたてるようで、1923年に 発表された「月の沙漠」の歌も半世紀以上の時を超えて1997年にNHK が行った「1000万投票 BS20世紀日本のうた」で、延べ1000万 曲の投票曲のうち84位となり、ベスト100入りを果たした。
 そんな日本ではなかなか味わえない本物の「沙漠」を楽しめる観光地が中国には結構あるが、その1つが寧夏回族自治区だ。
ここはテンゲル(騰格里)沙漠とウランブハ(烏蘭布和)沙漠、モウス(毛烏素)沙漠に囲まれた沙漠都市だ。沙漠を中心とした独特 の自然環境と歴史を背景にした西夏文化、回族文化など、ほかの土地にはないユニークな観光条件が揃っている。主な観光スポ ットとしては、沙湖旅游区、沙坡頭旅游区、賀蘭山岩画、西夏王陵、西部影視城、六盤山国家森林公園などがある。


銀川市の北西約50キロにある西部影視城。
張芸謀監督の『赤いコーリャン』や謝晋監督の『牧馬人』が撮られた撮影所として有名


寧夏への入口 銀川
  寧夏回族自治区は面積6万6400平方キロ、人口約610万人の中国にしては比較的小規模な部類の自治区だ。寧夏へ入るには、 まず空路で銀川(ぎんせん)から入るのが順当なルート。銀川河東空港へは北京、上海、広州、香港など16都市から毎日数便が 出ている。さらに現在、同自治区南部の中衛市の沙坡頭に空港を建設中のほか、同じく南部の固原市原州区に民用空港を建設予 定だ。陸路では、1958年から営業を開始している包蘭鉄道(包頭‐蘭州)が全長990kmのうち沙漠の中を140kmにわたって走る。この ほか宝中鉄道(宝鶏-中衛)が寧夏の南北を走るほか、現在、太中銀鉄道(太原-中衛-銀川)を建設中。
 寧夏への入口となる銀川市は寧夏回族自治区の区都で、島根県松江市と友好都市関係を結んでいる。銀川市の管轄下にある霊 武市の「水洞溝遺跡」の発見により、3万年前の旧石器時代にはここに人が住んでいたことが証明されている。B.C.3世紀、秦の始皇帝 による全国統一後は郡が設置されて屯田兵が開墾、現在の銀川市東郊外を流れる黄河から水を引いて灌漑する水利事業が始まった。 11世紀になると李元昊(りげんこう)が大夏国を建国、興慶府(現在の銀川)に都を置いた。この大夏国は中原の西に位置したため、元 代以降には「西夏」と呼ばれるようなった。


現在修復中の銀川市南門


今のところまだ高層ビルが林立していない銀川市旧市街区は威圧感がなく、朝の散歩は快適。中央は高さ64.5mの西塔(承天寺塔)


消えた謎の王国、西夏の皇帝陵
 銀川市街区から西へ約35キロの賀蘭山東麓には、11世紀の中国西北地区を支配した大夏国の皇帝たちの陵墓、西夏王陵がある。
 西夏王朝を建国した李元昊は、古代羌(チャン)族の支族であるタングート族で、このタングート族はもともと、青海、四川、チベット 境界の黄河が湾曲する一帯に暮らし、世代を重ねるとともに水草を求めて原始的な遊牧生活を行うようになった。唐代中ごろにたび たび吐蕃(とばん)の侵入を受けたタングート族は唐王朝に帰順し、唐王朝の承認と計画のもと、100年間にわたって民族をあげての 大移動を開始し、最終的に今日の甘粛省東部と陝西省北部に定住することになった。唐代末にはタングート族の拓跋思恭が黄巣の 乱の平定に大きな功績をあげたため、夏国公に封じられて現在の陝西省一帯の地を手に入れた。それ以降、タングート族はここを根 拠地に勢力を拡大し、宋代初めには割拠勢力の一方の覇を称えるまでになる。そして1038年に李元昊が大夏国を建国してからは西夏 時代の前期は北宋、遼と、中後期には南宋、金とそれぞれ拮抗する勢力を維持し、3つに分かれた天下の一翼を担い、200年近くにわ たって中国西北部に君臨した。西夏王朝は唐王朝や宋王朝のさまざまな制度にならい、漢民族の文化や先進技術を吸収していった。 軍隊制度や官職制度を築き、水利事業を興し鉱山を開発したほか、西夏文字をつくり出したり、仏教を国教としたりするなど数々の改革 を行った。その最盛期には現在の寧夏、甘粛、内蒙古西南部、陝西北部、青海東部の約83万平方キロという広大な土地を領土とした。 それは、現在の中国国土の11分の1、寧夏回族自治区の面積の12倍にも相当するという広さだ。だが、西夏時代後期には王朝の没落 に伴い、タングート族に特有の武を尊ぶ精神が衰退していき、2世紀近くにわたって中国西北部を支配した少数民族王朝は1227年、モン ゴル族の精鋭部隊に滅ぼされ、タングート族も歴史の舞台から姿を消し、漢民族のなかに溶け込んでいくことになる。西夏王朝の文化財 や書物などの遺産は後世の人々により破壊されてしまったうえ、西夏を滅ぼし新たな王朝を築いた元王朝は前政権である西夏の歴史に ついてはまったく史書を残さなかったため、西夏王朝は後世の人々に数々の謎を残す結果となった。

 李元昊は帝位についたあと祖父の継遷と父の徳明にそれぞれ太祖、太宗の廟号を贈るとともに、賀蘭山麓の陵墓を改修した。その後、 189年間にわたる西夏王朝の歴代10代の皇帝はみな、ここに埋葬された。現在、50平方キロの王陵区内には9基の王陵と250基余りの陪 葬墓がある。唐代、宋代の宗廟の配置にならって、南から北へ帝位についた順に東西に分かれて配列されており、その規模は北京の明 の十三陵に相当し、現存する地上の遺跡では最も完全な形で保存されている皇帝墓の1つだ。だが、この西夏王陵には初代皇帝の李 元昊とその祖父の太祖、父の太宗及び第2代皇帝から第7代皇帝までの陵墓しかない。最後の皇帝がモンゴル軍に投降したあと殺され たほか、第8代、第9代皇帝はともに1226年、チンギス・ハーンの率いるモンゴル軍に包囲される中で死んだ。そのため、すでに人も資金 もすべてモンゴル軍との戦いに使い果たし、彼らの陵墓を建造する力が残っていなかったと考える専門家もいる。しかし、一方では、史書 に各陵墓の位置が記されていないうえ、墓碑が破壊されてしまっているため、7号墓が第5代皇帝仁宗の寿陵であるという以外はなお考 証が必要だとする専門家もいて、謎は残されたままである。

  現在、最も保存状態がよく、規模が大きいのは3号墓で、これは李元昊の陵墓と見られている。王陵区内にある9基の「陵塔」と呼ば れる王陵はすべて土を突き固めてピラミッド状に造られており、このような陵墓は中原地区では珍しい。王陵はみな中軸線からはずれ て西北方に建てられている。これは、真ん中の場所には神が宿ると信じていたタングート族が、たとえ君主であれ、その死後の陵墓で あれ、神の居場所である「中央」を避けた結果であると考えられている。また、王陵が西北方にあることについては、仏教を篤く信仰した 西夏皇帝の西方浄土思想によるものとされるが、西夏王朝そのものが西北に起源を持ち、西北の地で栄えたことから「西北」を吉兆の 方角としたのではないかという説もある。


西夏王陵3号墓。李元昊の陵墓は「東洋のピラミッド」とも言われる

沙漠でバードウォッチング 沙湖旅游区
 「沙湖旅游区」は銀川市と石嘴山(せきしさん)市の間にある国家5A級(注1)の観光地。銀川市から東北に56キロ、石嘴山市から 30キロのところにあり、銀川市内からは石中高速道路で約40分、銀川市南門などから30分に1本、バスも出ている。国道109号線と包 蘭鉄道(包頭─蘭州)がそばを通っており、京蔵高速道路(北京-ラサ)を使えば北京から直接旅游区に行くこともできる。  旅游区で観光のために開発されているのは80.1平方キロだが、そのうち45平方キロは平均水深が2.2メートルの水域(湖)で、22.52 平方キロは沙漠だ。ここは銀川平原にあり、寧夏回族自治区を囲む騰格里(テンゲル)沙漠、烏蘭布和(ウランブハ)沙漠、毛烏素 (モウス)沙漠とはつながっていない。ここに形成された沙漠は賀蘭山西の内蒙古自治区の巴丹吉林(バダインジャラン)沙漠から風 に飛ばされてきた沙が堆積したのではないかと見られている。

 沙湖の成り立ちについてはさまざまな伝説があるが、その1つは次のようなものだ。昔々、海竜王と地竜王が人間界の見回りをして いたときのこと。沙湖のあたりまで来たとき、このあたり一面が干上がっているのを見て旅行者に身をやつして先に進んだ。当時、ここ の人々は苦しく辛い毎日を送っていたにもかかわらず、わずかな食糧をこの2人に分け与えた。そこで感動した2人の神仙のうち海竜王 が、持っていた宝のヒョウタンから1滴の酒を地面に落とした。すると、これがなみなみと水をたたえた沙湖に変わった。一方、地竜王は、 地面から1本の草を引き抜き湖に投げた。すると、湖の中にうっそうと葦が茂り始めた。

 実際には、排水溝のないなかで山津波などによっていくつかの堀の水が長期にわたってたまり、ここのくぼ地に大きな湖を形成させ たと見られている。
 沙湖には葦の生えているところが300ヘクタール余りあるが、そのうちの1割を飛来する鳥の住処「鳥島」として残している。 そして、この「鳥島」から約20メートルのところには高さ18メートルのバードウォッチング用展望台が設けられ、高倍率の望遠鏡が 備えられて数百人が鳥の観察をできるようになっている。沙湖に飛来する鳥は中国の国家1級保護鳥類(注2)に指定されている ノガン、コウライアイサ、ナベコウ、オジロワシなどのほか、オオハクチョウ、コハクチョウ、オシドリなど約130種類150万羽で、毎年 4‐5月および9-10月に多く見られ、展望台からは数万羽を肉眼で見ることができるという。鳥島ではコウノトリ目サギ科の鳥を中心 に、アオサギ、ムラサキサギ、ゴイサギ、コサギなど7種類の鳥がそれぞれの場所を確保して営巣している。なかでもアオサギは最も 数が多く3月末から11月にかけて見られる。
 また、沙湖旅游区では水上落下傘(モーターボートで引っ張って水面から50メートル前後の上空まで上げてから落水する)や水上< モーターボート、ボードに座って滑りおりるサンドスキーなどが楽しめるほか、沙漠の中を北京汽車のジープでドライブしたり(免許証の ある人は自分で運転も可)、駱駝に乗って昔の隊商気分を味わったりすることもできる。


葦の茂る湖の向こうは砂山


沙漠をジープで。ちょっとしたパリ・ダカ気分?

黄河と沙漠の交差点 沙坡頭旅游区
 沙湖旅游区とともに寧夏の国家5A級沙漠観光地として、銀川市から南西200キロの中衛市の西郊外に沙坡頭(さはとう)旅 游区がある。中衛市で黄河はS字型に大きく湾曲するが、沙坡頭はその黄河とテンゲル沙漠が交差する、中衛市街区から18 キロのところにある。中衛市へは銀川から列車かバスで約3時間、バスは20分おきに出ている。また銀川からは直接沙坡頭へ 行くバスも毎朝1本ある。
 沙坡頭は古代シルクロードの通り道で、テンゲル沙漠の東南端部にある。「テンゲル」とはモンゴル語で「天」という意味。 天のように広大な沙漠と黄河、高山、オアシスが一体となった観光地で、1994年に国連環境計画(UNEP)から世界環境ベスト 500の称号を授与されたところでもある。テンゲル沙漠は形成された時代が古いため、砂質が沙湖旅游区のものより細かく、 きな粉のようにさらさらしており、鳴き砂としても有名だ。手づくりのボードに座って傾斜の急な砂山を滑り降りるサンドスキーの 際にはこの砂の音が聞こえる。サンドスキーが怖いという人はリフトで下におりると、そこは砂山の光景とは打って変わって桑 や棗、リンゴの木々が生い茂るオアシスだ。美味しい果物が実る8月中旬から9月末はベストシーズン。 沙坡頭はもともと自然 条件の劣悪なところで、黄沙が立ち込めるテンゲル沙漠の一部だったが、賀蘭山の岩画に描かれている動物の姿などから、 古代には森林と広大な草原があり、遊牧民族が暮らしていたと推測されている。沙坡頭地区からは新石器時代の人類の生活 を示す遺跡も見つかっているが、今ではこれらの遺跡は砂の下に埋もれてしまっている。

 沙坡頭地区は地理的に重要な場所で、黄河上流、寧夏平原、蘭州河谷につながるとともに、河西回廊の通り道でもあり、 唐代、西夏時代も中衛は屯田の重要な地域であった。その後、元、明、清代と人々は沙坡頭地区で大規模な開墾を続けたが、 打ち続く戦争や行き過ぎた開墾、灌漑設備や耕地の放棄などによって生態系の悪化を招いた。沙坡頭地区にいつごろ沙漠が 出現したのかについて、考古学者の景愛氏は元代に最初の沙漠が出現したと見ている。こうした沙漠の成り立ちや沙漠化を防 ぐための対策などを紹介する「治沙博物館」もここにあり、さらに「中国沙漠博物館」を建設中だ。

沙坡頭ではこのほか、羊の皮でつくった筏で渡る黄河遊覧や、ラクダに乗ってのテンゲル沙漠巡り、沙漠の中でのバレーボール やサッカー競技などのイベントが用意されている。


沙坡頭旅游区は沙漠と黄河、高山、オアシスが一体となった観光地


羊の皮で作られた筏で黄河を遊覧


沙坡頭では砂で作った彫刻も楽しめる


注1:国家5A級観光地
 中国には現在187カ所の国家クラスの観光地があり、07年10月からこれを1Aから5Aまでランク付けしている(それまでは1Aから4A)。 ランク付けはサービス・環境と景観を軸に、交通、安全性、ショッピング、衛生環境、通信サービス、経営管理、旅客の満足度、資源、 環境保護などを加味して点数制で決められる。さらに、最も等級の高い5Aを獲得するには年間延べ60万人以上の観光客(うち海外観 光客は5万人以上)を受け入れていることが条件の1つとなっている。

注2:国家1級保護鳥類
 中国に特有の鳥や中国では珍しい鳥もしくは絶滅に瀕している鳥で、1988年に全人代で採択され1989年から施行された「中国野生動 物保護法」に基づいて法的に保護されている鳥類。


「北京週報日本語版」2008年9月23日  http://www.pekinshuho.com/zt/txt/2008-09/23/content_153433.htm
 ※この記事は、『北京週報』日本語部の許可を得て掲載しております。

 5.銀川市の「小さな巨人」・LGマザック社                   

5.銀川市の「小さな巨人」・LGマザック社
清水由実

 寧夏回族自治区は今年10月に自治区成立50周年を迎える。その寧夏回族自治区の区都・銀川市に日本の 独資企業が進出していることは意外と知られていない。その企業は「小巨人機床有限公司(LG Mazak)」。   6月21日、同社の松宮文昭常務副総経理および総経理弁公室の姚益主任に話を聞いた。

銀川市ハイテク開発区への第1号進出企業となった敷地面積1万2000平方メートルの「小巨人機床有限公司」工場


少人数で大きな利益
 「小巨人」は、愛知県に本社を置くヤマザキマザック株式会社が投資して設立した工作機械メーカー。ヤマザキマ ザック社は1919年に山崎鉄工所としてスタート、1931年から工作機械の製造を始め、1974年に日本メーカーとして初 めて米国での生産を始めて以降、今では中国を含めイギリス、シンガポールなど世界8カ所に生産拠点を置き、ドイツ、 イタリア、フランス、韓国、インドなど世界各国に79カ所のテクノロジーセンターやテクニカルセンターを設けている。
 姚益主任によると、現在、NC(コンピュータ制御)付き工作機械(マザーマシン)を年間2000台生産する同社の従業員 は約500人。この人数で年間売上11億元を稼ぎ出している。1人当たり年間約200万元を創出していることになる。 「小巨人」の社名は、こうした少数精鋭で巨額の利益を生み出すことから名付けられたという。

トップは中国人、社員教育に力
 現在、技術、管理、財務などに6人の日本人が常駐しているほかは、総経理も含めてすべて中国人スタッフにより運 営されている。
  社員は地元および近隣省の、休暇に帰郷できる圏内を中心に、高等専門学校の卒業生を新規採用しているという。 その初任給は平均2000元。大卒者も含めて毎年約30名を4ヶ月間、日本での研修に送り出している。現地の給与水準 から言えば高給だ。「この会社は、給料はいいが、厳しい」と受け止められる環境づくりに腐心している、と松宮氏は言う。 遅刻やボルトの締め忘れなどの品質管理面での軽率な行為には罰金を科しているという。その一方で、新入社員でも 一目でわかるようなマニュアルづくりにも力を入れている。「工場はショー・ルーム」をモットーとしているという松宮氏の 言葉通り、工場参観の際にはこちらの姿を認めた全ての従業員が軽く会釈してくれる。また、床には塵(ちり)1つ落ち ておらず、仕事を終えたセクションでの機材などは整然と直線をなして置かれ、気持ちのよいすっきりした工場となって いる。
 同工場は自動生産ラインが稼動しており、このことも従業員数を少なく抑えることができる大きな要因となっている。 姚益主任はここを「中国初のサイバー工場です」と胸を張る。その言葉を裏付けるかのように、同工場設立後には江沢 民前国家主席を始め、呉邦国全人代常務委員会委員長、賈慶林政協会議議長、呉官正中央政治局常務委員、呉儀 前副首相らが工場視察に訪れており、工場を入って右手の壁にはその視察の際の写真がずらりと掲げられている。   同社の“売り”は、この自動生産ラインと北京、上海など全国14カ所に張りめぐらされた24時間体制のアフターサービ ス網だ。

資材の所要量と時期、在庫量などを系統的に算定するMRPソフトを内蔵した立体倉庫で自動管理。
これでユーザーへの納期や部品のメンテナンスなどを管理している


一元化され整然とした組立ラインにも清潔感が


05年、独資企業に
 しかし、初めから全てが順調に運んだわけではなかった。1999年の会社立ち上げから関わってきた松宮文昭副総経 理は設計を専門とする技術畑出身の人物だが、その松宮氏によると、中国進出や独資企業への移行に関しては日本 国内、中国国内ともにさまざまな議論があったという。初めは当時の寧夏長城機器集団との合弁企業(中国側75%、 日本側25%)を99年3月に設立し2000年5月に開業、2年間で黒字に転換させた。売上を伸ばす中で築かれた信頼関 係を基礎に02年に38%の出資率、05年に100%の独資企業へと移行した。その背後には、合弁会社の立ち上げ直後 に打ち出された中国の「西部大開発」政策が追い風となった経緯がある。松宮氏は「西部大開発の波に乗れたことが ラッキーだった」と振り返る。また、進出した90年代末には日本は不況の只中にあったが、むしろそのために優秀な人 材を日本から引き抜くことができ、未上場、無借金の強みで不況を乗り切れた、と松宮氏は言う。

現地に根を張る
 5月12日の四川大地震の時刻に自社の2階で接客中だったという松宮氏は、日本でも経験したことのない揺れに驚い たという。この地震で取引先の東方電気集団が大きな被害を蒙ったこともあり、ヤマザキマザックは寧夏赤十字会に対 して3000万円(約200万元)の義援金を贈った。今後も全力をあげて被災地の同社製工作機械の無償復旧支援を進めて いくという。

 また、6月29日から7月1日にかけて寧夏回族自治区の中衛市、呉忠市、銀 川市の3都市で行われた五輪聖火リレー には、同社の技術部門の従業員が聖火ランナーとして選ばれ、呉忠市内を走った。
 立ち上げから間もなく10年を迎え、徐々に地元に根を張り、マイナス要因をプラスに転化させ、時代の風を巧みに引き 寄せてきた「小巨人」が今後、この中国西北の地・銀川市で生産面だけでなく人材育成、人的交流などの面でも、どの ような成果を生み出していくのか楽しみだ。

 ※この記事は、『北京週報』日本語部の許可を得て掲載しております。


6.五輪選手村に沙漠都市・寧夏中衛のブランド西瓜

6.五輪選手村に沙漠都市・寧夏中衛のブランド西瓜
清水 由実

 夏といえばスイカ、アイスクリームというのは世界共通の典型的な夏の風物詩だろう。だが、アイスクリームはともかく、 おいしいスイカにめぐり合うのはなかなか難しい。甘くても熟れすぎてベチャッとして歯ごたえがなかったり、シャリシャリ と口当たりはよくても甘みが足りなかったりして、なかなか「ウン、これだ!」と納得し、満足できるスイカにはめぐり合え ない。
 だが、寧夏回族自治区南部の都市、中衛市で収穫されたスイカは一味も二味も違う。とにかく甘い。そして硬過ぎず、 柔らか過ぎず口の中で心地よい音を立てるその食感のよさ。多過ぎず、少な過ぎず、すっきりとノドを潤してくれる、ほ ど良い水分量。そのどれをとっても抜群のスイカだ。実際に沙漠で食べた味を思い出すとヨダレが出てくるほど、と言っ てもいい。そのスイカが五輪向けに提供されるという。

甘くてサクサク、「圧砂瓜・硒砂瓜」スイカとは?
 寧夏回族自治区は中国西北部の黄河上流域に位置する人口610万人余りの地区。人口の35.76%を回族が占める自 治区だ。西、北、東の三方をそれぞれテンゲル(騰格里)沙漠、ウランブハ(烏蘭布和)沙漠、モウス(毛烏素)沙漠に囲 まれ、自治区全体の23%近くの土地が沙漠化しているという生態環境の深刻な地域だ。
 そのため、自治区政府と各市政府は生態系の保護と地場産業の育成に力を入れているが、その中で生まれたのが 中衛市のスイカ「硒砂瓜(シーシャーグァ)」だ。


半砂漠地で栽培されるスイカ「圧砂瓜」


 「圧砂瓜・硒砂瓜」(ヤーシャーグァ・シーシャーグァ)は平均海抜1760メートル、年間降水量が180ミリ足らずという中 衛市南部の山間地区の半砂地で栽培されているスイカだ。砂地に小石を敷き詰めることで、保水や保湿、保温などの 効果をあげるとともに、水や風の浸食を防ぎ、砂が巻き上がるのを防いでスイカの種をまく。最近はこれに加えて、種 をまいたうえにビニールをかぶせて水分蒸発を防ぐという農民が自ら考案した方法がとられている。「圧砂」とは「砂を 押さえつける、圧する」といった意味だ。

 95年からこの方法を普及させ、敷き詰める小石は近くの山あいから運んでくるが、このうちの一部にセレン(中国語 で「硒」)が含まれていて、これが雨水に洗い流されて土壌に滲み込み、スイカに吸収される。セレンは体内で過酸 化脂質を分解する抗酸化酵素の主成分で、ガンや老化を防止する抗酸化作用があると言われるミネラルだ。一般 的にはかつお、イワシなどの魚介類や動物の内臓、小麦胚芽、玄米などに多く含まれており、これが欠乏すると不 整脈や動脈硬化、筋力の低下、心筋障害などを招くことがあり、また過剰に摂取すると消化機能の低下や抜け毛な どの症状を招くことがあると言われる。「日本人の食事摂取基準」(2005年版)で設定された1日の推奨量は成人男性 で30~35マイクログラム、成人女性で25マイクログラム、上限量は男性が450、女性が350マイクログラムだ。

 農業部の測定検査報告によると、中衛市のブランド品である「中衛香山硒砂瓜」には1kgあたり0.0056mg(5.6マイク ログラム)のセレンが含まれているという。

シーシャーグァがブランド品になるまで
 スイカの栽培には昼夜の寒暖差があり、日照時間が長く、水はけのよい土地柄が適していると言われる。中衛市 の香山地区は昼夜の温度差が16.4℃、日照時間は年間2845時間、スイカの生長期には1100時間余りとその気象条 件にぴったりの場所。だが、「水」については、何しろ年間降水量180ミリ足らずという土地柄だ。降水量は極めて少 ないものの、その約60%が6月から8月に集中するこの地域では、鉄砲水などで押し流されたり風化したりした石灰 質の岩石片が山あいに堆積している。そこで考え出されたのが、これらの岩石片を半砂漠土の上に10~15センチ の厚さに敷き詰めるという方法だ。こうすることで昼間に吸収された太陽の輻射熱が土壌の下のほうに伝わり、蓄 積されて地温を上げる効果がある。そのほか、土壌の毛細管現象を断って水分の蒸発を防ぐとともに、岩石片に含ま れるカルシウムや燐、カリウム、ナトリウムなどの栄養物質や亜鉛、セレンなどの微量元素が風化や雨水によって洗 い流され、土壌に蓄積されて農作物の根に吸収されていくという効果もある。


6月29日、寧夏回族自治区の先頭を切って中衛市で聖火リレーが行われた。
写真は6月24日、聖火を迎える準備が進む中衛市の大通り


  2004年4月から地区クラスの市として新たなスタートを切った中衛市は、スイカ栽培を貧困脱却の産業として振興 させるため、山間地区にシーャーグァの栽培基地を建設する過程で砂地の整地に力を入れる一方、乾燥防止のため の水補給工事に力を入れ、3年間で7000万元(約10億5000万円)余りの資金を投入した。07年春までに中衛市全体で 用水路や揚水ポンプ、モーター式ポンプ井戸、貯水池、送水管などの建設、設置に力を注ぐ一方、灌漑施設を新設、 補修するなどして貯水能力を高め、シーシャーグァの収穫を一定に保つための用水を確保。08年春には灌漑面積は 3万6300ヘクタールに達した。同時に流通ルートを確保するため、栽培基地にはアスファルト道路が159.5キロ、砂礫 道路が480キロにわたって整備された。 また、有機食品としての規格を統一させる生産が行われ、化学肥料を使用せ ず、農薬の使用を厳しく禁じている。ここのブランド品である「中衛香山硒砂瓜」スイカは03年に国家緑色食品発展セン ターから「A級緑色食品」(注1)と認定され、06年には「有機転換産品」の認定を獲得、07年には自治区全体で4番目、 中衛市では唯一の「国家地理標志保護産品」(注2)の証明書を授与された。

期待を担うシーシャーグァ
 2007年に中衛市全体で小石を敷き詰め整地した砂地の面積は6万7740ヘクタール、圧砂瓜の作付面積は4万5600 ヘクタールとなり、総生産量は70万トンを超えた。商品の95%が北京、重慶、成都、上海、広州など寧夏以外の33都 市に出荷されてその収入は4億500万元、スイカ農家1世帯当たりの収入は1万2054元、1人当たりの収入は2680元と なった。08年には作付面積を6万7400ヘクタールとし、120万トンを収穫する予定で、その収入は6億元を超える見通し だという。

 毎年4月末から5月にかけて定植し、7月中旬から9月にかけて収穫、出荷される中衛のスイカでは「香山硒砂瓜」、 「香山緑豪」、「香岩宝」の3つがブランド登録されている。このうち「香山硒砂瓜」が8月にはオリンピック村に供され、 世界中のアスリートらがその甘さを味わうことになる。

注1:緑色食品

 「緑色食品」は農業部が定める基準に基づく強制力を持つ国家基準。現在、AA級緑色食品とA級緑色食品の2つの技 術等級がある。AA級は産地の環境が『緑色食品産地環境質量標準』に合致しており、生産過程で化学的に合成された 農薬や肥料、食品添加物、飼料添加物、動物薬を使用していないこと、環境・人体の健康に有害な生産手段を用いてい ないこと、有機肥料、緑肥を使っていること、作物を輪作していること、生物学的または物理学的方法を用いた技術を使い、 肥沃な土壌をつくり出し、病虫害をコントロールし、商品の質の保護と向上に努めていることなどが条件とされている。A級 は同様に『緑色食品産地環境質量標準』に合致しており、生産過程で『緑色食品生産資料使用準則』と『生産操作規程』 が求める決まりに基づいていること、一定の化学的に合成された生産手段を用いていないこと、生物学的または物理学的 方法を用いた技術を積極的に取り入れていることなどが条件。

注2:国家地理標志保護産品
 中国のWTO加盟に伴い国家質量監督検験検疫総局が06年7月から施行した『地理標志産品保護規定』に基づく商品。 一定の質や特性を具え、一定の評価を得ている特定の原産地の商品として知的財産権の保護を受ける商品。

「北京週報日本語版」2008年7月23日  http://www.pekinshuho.com/zt/txt/2008-07/23/content_153457.htm

 7.「寧夏大学新聞」、保母武彦当研究所顧問の「銀川市栄誉市民」受賞を伝える                    

 当研究所日本側顧問である島根大学名誉教授が、銀川市から「栄誉市民」の称号を授与された。「寧夏大学新聞 ネット」もそのことを伝えている。以下は、寧夏大学新聞ネットが伝えた記事である。

寧夏大学・島根大学国際連合研究所保母武彦先生が「銀川市栄誉市民」を授与
【寧夏大学新聞センター 党委員会宣伝部 邱宁夏大学新闻中心讯 党委宣传部 邱守刚】

 9月24日、自治区成立50周年記念の喜ばしい日に当たり、「第一回銀川市栄誉市民授与式」が市役所講堂で盛大に 行われた。我が寧夏大学・島根大学連合研究所の保母武彦先生が、「銀川市栄誉市民」の光栄ある称号を獲得された。 熱烈な拍手の中、保母武彦教授は、襷をつけて受賞のステージに上がり、王儒貴市長から「栄誉市民証明書」を、崔 波党書記から「都市の金の鍵」を受けられた。
 
 保母武彦先生は日本島根大学前副学長で、現在、寧夏大学・島根大学連合研究所顧問を勤められている。1987年から 始まった21年間の島根大学との学術交流の中で、保母教授は何度も寧夏、寧夏大学、寧夏南部山区に赴いて現地調査 を展開された。そして、先生は常に、急速に発展する中国に関心を持ち、両国及び両地域の「条件不利地域の経済社会 発展問題」に関心を寄せ、自らの言行によって中日両国の大勢の若手研究者に影響を与えている。保母先生のご尽力の 下で、寧夏大学は島根大学へ30人余りの研究者を派遣し、学術セミナー、共同研究、教学実践等に参加し、島根大学の 研究者や学生約100人が、寧夏へ学術交流と調査に来られた。また、国際学術交流と共同研究を拡大するために、保母 武彦先生と陳育寧教授(元寧夏大学共産党委員会書記、学長)の強力な尽力のもと、2004年3月11日に、寧夏大学西部 発展研究センターを基盤にした、中国寧夏大学•日本島根大学国際連合研究所を設立した。この国際研究所は、両大学 の学術交流、共同研究、人材育成など全面的な各種学術交流活動展開の拠点となり、地方政府の戦略や方策の決定に 参考となる意見や知的支援を提供している。さらに、保母武彦先生は、寧夏大学の円借款プロジェクトの実施を推進され、 円借款1000万ドルの上に更に70万ドルを追加してもらい、特別支出金として寧夏大学•日本島根大学国際連合研究所の オフィスビル建設が実現した。

 保母武彦先生は、定年退職後も、連合研究所日本側の顧問として、中日連合研究所の建設と発展に専念されている。 2004年から今日まで、「寧夏回族自治区人材育成」計画の実施、寧夏大学研究者の島根大学への研修事業の審査、指 導と研修管理制度などの制定及び研修員の研究と日常生活までも自ら担当されている。現在、寧夏大学から3回、合計 25人の研究者が島根大学での研修を順調に終えた。長期にわたる保母武彦先生のご指導のもと、また、双方の指導者 の努力のお陰で、両大学の学術研究交流は促進され、両地域の全面的友好交流を推し進めることもできた。保母武彦 先生は、寧夏大学と島根大学友好交流関係締結の提唱者であり、また促進者、組織者でもある。
  「銀川市栄誉市民」の称号の授与は、主に銀川市の経済社会発展、対外交流などの事業に特に貢献された市外人士を 表彰するためである。『銀川市栄誉市民称号の授与方法』に規定されたように、栄養市民は招聘に応じて銀川市人民代表 大会やその他の会議に列席することができ、銀川市の式典などの重要な活動に参加される場合には、貴賓待遇を受けられ るとのことである。
(翻訳:郭、校正;神田)


 8.日中友好国際協力島根県民交流団が,寧夏・銀川市で12回目の植林活動             

 1997年から始まった「日中友好国際協力島根県民交流団」(以下、島根県民交流団)の寧夏訪問は、今年で12回目を迎えた。
 今年、寧夏回族自治区は、甘粛省から独立して回民族の自治を重視する自治区を設立して50周年になる。そのために、 寧夏では、9月から10月にかけて「自治区成立50周年」の重要な大型のイベントが数多く実施された。
 一方、島根県が寧夏回族自治区と友好交流協定を締結をして友好活動を始めてから15周年でもある。そのため、島根県 と寧夏自治区は、自治区設立50周年記念行事の一環として、島根県・寧夏友好締結15周年記念祝賀会を実施することにし た。県民交流団の寧夏訪問は、例年6月に行われているが、今年はこの祝賀行事に参加するために10月の訪問となった。

第12回県民交流団一行23名は、10月17日、着飾った小学生と寧夏大学日本語学科の学生等約100人の出迎えを受けて、銀川 空港に到着した。
 18日午前中は、松江市と友好交流協定を結んでいる銀川市内の小学校を訪問し、小学生と交流した。午後 からは、寧夏観光半と 「環境フォーラム」班に分かれて活動した。「環境フォーラム」班は、寧夏大学において寧夏大学日本語学科の学生を中心に約70人を集めて開催された。交流団のメン バーが、日本の地方自治体や一般住民が日常どのような環境保護の活動を行っているか等を紹介し、約2時間半に渡って環境 保護について意見交換行った。
 19日は、浜田市が友好交流を行っている石炭生産を中心に発展する工業都市・石嘴山市を訪れ、生態環境改善の取り組みを 視察した。
 20日は、銀川市の郊外の荒漠化した土地で植林活動を行った。この植林地は、1987年、島根県と寧夏自治区が“島根・寧夏 友好林”を造成する協定に基づいて建設中のもので、これまで既に約50haの友好林が出来上がっている。県民交流団は、この 植林活動に12年間1回も欠かすことなく参加している。
 20日6時からは、「島根県・寧夏自治区友好交流15周年祝賀会」が開催され、県民交流団の一行も招かれ、祝賀開会会場のホテル前で餅つきを行って、交流15周年を祝った。
(文責:神田)


9.寧夏の土地砂漠化は歴史的逆転を実現した              

治理スピードが砂漠化進展のスピードを上回る
『人民日報』2008年9月22日付け

  三方を砂漠に囲まれた寧夏回族自治区は、中国の土地砂漠化の最も深刻な省区の一つであり、区内の13県、約300万人は 長期にわたり風と沙の侵害を受けてきた。長年来、寧夏の幹部と区民は退耕還林、退耕還草、天然保護林、三北防護林建設、 湿地の回復と保護、小流域総合治理などの重点プロジェクトを実施し、砂漠化の進展を逆転させ、生態悪化の趨勢を抑え、寧 夏の山河を美しく変貌させた。

 前世紀の50年代初期から、また1958年自治区が設立されて以降,寧夏は荒漠化、砂漠化した場所に各種の国有林場をつくり、 封育保護と植樹・造林活動を展開した。「白骨無人収」(白骨を集める人がいない。非常に荒涼とした所のたとえ)の沙坡頭(シャポ トウ・・・中衛市)に、中国科学院が砂漠化防治実験基地を設け、荒漠化防治の科学的研究を始めた。現在、‘沙の龍は鎖につな がれ’、沙坡頭は、緑織り成す全国的に有名な5Aクラスの観光地になった。1958年に設立された国有林場は、防風固沙保護林 帯の形成を基本的に成し遂げた。

 新しい世紀に入って、寧夏は防砂治砂の責任を確実に実行し、人口、資源、環境の調和を取りながら、防砂と治砂、保護と利用、 治理と経済性を結合させる原則に基づき、絶えず治砂の構想を改善し、大規模プロジェクト、大規模工事によって、集中的継続的に 大規模治理を実施してきた。相前後して40億元を投資し、「塩環定揚水プロジェクト」、「沙坡頭水利中枢プロジェクト」、「寧夏貧困 扶助揚水」等の大型水利プロジェクトを実施し、新たに20万haを超えるオアシスを建設し、60万人余りを移住させた。

 寧夏は、2003年5月1日から、省単位としては全国に先駆けて全面的な禁牧封育を実施した。天然の草原で放牧していた羊は全て 山から下ろして舎飼にし、天然の草原を全て農家請負とした。このやり方は「退耕により栽培を促進し、栽培により養畜を促進し、養畜 により草原管理を促進し、草原管理により禁牧を促進する」ことである。

 防沙治沙の進展過程で、寧夏は生態改善と産業発展を緊密に結びつけ、砂漠化した地域の特色産業を積極的に発展させ、 農民の増収と経済発展を促進してきた。近年来、寧夏は平坦な砂地で甘草、マオウ、肉ショウヨウ等漢方薬の原材料を40万 畝(ムー;666.7㎡)栽培した。そして、低アルカリ成分の砂地では、赤柳、紫エンジュなどアルカリ性に強い灌木を植林し、檸条 (灌木)の飼料加工工場を17ヵ所つくり、年間3万トンの飼料を生産している。塩池県、霊武市の人工甘草の栽培面積は12.5万 畝に達している。現在、寧夏には、治沙面積が100haを超えた企業が60社以上あり、開発・治理した砂漠化、荒漠化した土地は 2万ha以上である。砂漠地を治めるために植林した農家は14.7万戸、植林面積は4.32万haに達する。また,寧夏は「六つの百万 畝(ムー)」生態保護建設プロジェクトを全面にスタートさせた。これらのプロジェクトが完成すると、寧夏の山河の美しさは一層彩り を増すことになるだろう。

 数十年の防沙治沙の努力により、寧夏の美しい山河の建設は優れた成績を遂げた。「第 十次五ヵ年計画」の実施以来、 確認された合格植林面積は107.1万haになった。第三次全国荒漠化監視測定の結果によれば、寧夏は、累計で既に砂漠化した 土地を46.7万ha治め、砂漠化面積は、前世紀70年代の165万haから118.3万haまで減少し、治理スピードが砂漠化進展のスピード を上回る歴史的転換を実現させた。
(翻訳:郭、校正;神田)


10.寧夏、退耕還林で農民の生存問題を解決し、全国で金メダル                         

2008年10月8日 銀川晩報

 丸裸になった山稜には、大小の耕地が点在し、大地からの恵みは天からの雨水の補給に頼るしかない。ともすると、 1年苦労しても種子さえ収穫できないことすらある。これは、寧夏南部山区の多くの農家の生活の真実を描写している。 このような生活が、先祖代々続いてきた。人口が増えるにともなって、大面積の山地が開発され、農民の生活はます ます劣悪となった。
 2000年、党中央、国務院は、生態環境を改善するために退耕還林の重大政策を決定した。退耕還林は、西部大開発 戦略の重点生態プロジェクトである。
7年の時間が経過し、寧夏は計画面積1,189万畝(ムー;666.7㎡)を完成させ、現在、国家は寧夏の退耕還林に対して総 計40.61億元の補助金を交付している。1人平均の退耕面積は0.78畝で、全国で退耕還林の任務を持つ省区(自治区、 直轄市)の中で第1位である。
 「1人平均の退耕還林面積が全国で“金メダル”を取ったことは、喜ぶに値することです。そして更に私たちを喜ばせた ことは、退耕還林を通して、農民が食べていくことが難しい(暮らしが苦しい)という、長年にわたって寧夏の経済発展の足 をひっぱって来た難問もこれで解決に向かったことです。今日の寧夏の環境は大きく様変わりをし、農民は豊かになりは じめ、暮らしは日一日と良くなってきています」。
 自治区林業局責任者王徳林氏はほっとしたように語る。

1.農民はもはや食べることを心配することはない。
 2000年以前、自然条件が悪い寧夏南部山区では、よその土地に行って物乞いをする農民を見かけることは珍しいこ とではなかった。この地方は山地が多いために、生活は天気任せで、雨が降らなければ、それはすなわち一家全員が ひもじい思いを することを意味した。耕地1畝(ムー;666.7㎡)当りの生産量は数10㎏で、種子、肥料、人力等の費用を 除けば、幾らも残らない。旱魃の年は種子すら収穫することができない。
 2000年退耕還林が始まってから、国家は、退耕した農家に対して1畝当り100kgの食糧、20元の生活補助金を給付した。 これは元の約4畝の耕地からの収入に相当する。また同時に、基本農地の建設を堅持して、食糧の単位面積当りの収穫 量を引き上げ、退耕後の食糧の減産、農民の減収を保障した。自治区林業局のデータによれば、2000年の寧夏南部山区 の食糧総生産高は5.37億kg、2006年の食糧総生産高は9.84億kgで、食糧生産は毎年安定的に増加し、退耕農民の食糧問 題を解決した。

2.農村労働力は山村を出て行く。
 農地は生産量が低いけれども、大面積の農地は大量の農民が耕作することを必要とする。これは、自然に多くの農村 青年が村を出て収入を得たいという願いを打ち消してしまう。2000年から2007年まで、退耕還林面積が増加するにつれて、 退耕農民は十分な政策補助金を受け取っただけではなく、大部分の人が生存を頼っている土地からも開放され、労務経 済の道を歩き出し、このことが今では農民が収入を増やし、金持ちになる希望となった。
 統計によれば、南部山区8県で、1999年の労務輸出は延30.73万人で、1家庭の年平均収入は4,107元であった。退耕後 の2005年、労働力輸出は延6.1万人で、16.6億元を稼ぎ、1家庭の年平均純収入は6,239元となり、労務収入は農民一人当 たり年平均純収入の45%を占めた。労務経済は既に寧夏南部山区農民の”鉄杆庄稼(頼りになる作物)“になった。

3.草畜産業が台頭してきた。
 退耕還林の実施を通して、林草の植栽面積は190万畝に増加し、毎年生産可能な良質の牧草は1億1,400万kgで、1kg1元 で計算すると、退耕地区の農民は毎年1.14億元の増収が可能である。檸条(潅木)資源への転化率、利用率、商品化率を向 上させるために、塩池県は紫ウマゴヤシと檸条を原料とする飼料加工工場を3ヶ所建設し、檸条飼料加工のモデル地を9ヶ所 建設し、10万畝で檸条の株を剪定し、再び元気にし、檸条を3万トンの飼料に転化して、6万頭の羊の草飼料需要に充て、同 時にまた農業生産に良質・高効率の有機肥料を提供し、農業の増収を促進した。現在この県の草畜産業は安定的に推進 されている。

4.圏域経済は春風を迎えている。  
 寧夏の大部分の県(市、区)は、農業に依拠して経済を発展させなければならない。2000年~2007年、国家は、退耕還林の 補助金40.61億元を交付した。退耕還林重点県に交付された補助金は、当地の財政収入と企業利潤の総計を上回り、各県 (市、区)県域経済の発展を力強く促進した。
 2006年、彭陽県に交付された退耕還林補助金は1.2億元で、これは彭陽県の財政収入0.18億元の6.6倍である。原州区に交 付された退耕還林の補助金は1.16億元で、財政収入0.2億元の5.8倍である。西吉県に交付された退耕還林の補助金は1.11億 元で、財政収入0.2億元の5.5倍となり、県域経済の発展を力強く推し進めた。

5.生態環境は昔と比較できないほど変化している。
 退耕還林の実施を通して、水土の流出、土地の砂漠化を有効に制御し、水土流出と砂漠化面積を年々減少させ、重点地区の 生態環境と農民の生産と生活条件を顕著に改善した。
 統計によれば、彭陽県では、水土流出を治理した面積は1,633平方kmで、年間に泥沙の流出量を500万t減少させ、治理程度は 71%に達し、森林被服率は県が設立された当時(1987年)の3%から18.5%に向上した。水土流出面積は全県の土地面積の92% から53%に低下し、水は山から流さず、泥は谷から流さないという目標を基本的に実現した。
 2000年の全区の森林被覆率は8.4%、2005年の森林被覆率は9.84%で、1.44ポイント向上した。全区の最も新しい一次荒漠化監 視測定統計によれば、寧夏の荒漠化した土地と砂漠化した土地は、1999年と比較してそれぞれ349.5万畝、38.1万畝減少し、治理 速度が砂漠化速度を越えるという歴史的転換を実現した。
(翻訳:郭、校正;神田)


11.寧夏、13の農業特色優勢産業発展計画を策定       

 2008年10月15日付、寧夏新聞ネットが伝えるところによると、寧夏農牧庁は林業局などの関係部局と共同で調査研究し、専門家の意見 を求めた上で、自治区の政策である“一産業一計画”に基づき、『農業特色優勢産業発展計画(2008~2012)』を起草した。

 2003年、自治区は『寧夏優勢特色農産品の地域配置及び発展計画』を実施した。数年間の努力を経て、全区の特色優勢産業は急速に 発展し、地域化配置、専業化生産、規模化経営の枠組みを基本的に作り上げた。2007年、全区の特色優勢産業の生産額は、既に農業 総生産額の80%以上を占めている。

 今回の計画は、自治区のクコ、清真牛羊肉、牛乳、馬鈴薯、瓜類など13の産業に及んでいる。そのうち戦略的主導産業はクコ、清真牛 羊肉、牛乳、馬鈴薯、瓜類の5つ、区域特性優勢産業は優良質食糧(水稲、小麦、トウモロコシ)、淡水魚、葡萄、紅棗、良質牧草、種子の 6つ、地方的特色産業はりんごと甘草の2つである。

 計画は、産業化発展の考え方を貫き、生産前、生産中、生産後の全過程を構築することを重視し、生産、加工、流通の重要な環を有効 に連結させ、それぞれの産業の今後5年間の発展の道筋、目標と任務、区域と配置、建設内容と保障措置、主力標準化生産、科学技術 の保障、品質の安全、農民の資質の向上、産業化経営と政策支援など六大支援体系の建設を明確にしている。

 計画によると、2012年には、全区の特色優勢産業の集約度を現在と比べ10%以上引上げて80%以上とする。その生産額が農業総生産 額に占める比率を10%以上引上げ、90%以上とする。主要な生産区の農民1人当たり平均収入への貢献度を10%以上引上げ、40%以上 とするよう見込んでいる。
(文責:神田)


12.寧夏、中部旱魃地帯、南部山区節水農業計画を制定

 寧夏回族自治区は、2008年から2012年までの5年間に、畑作地区では秋季に雨が多いという特徴を利用して、集雨場、貯水窟を重点的 に建設し、秋季のビニール被膜栽培、一回の被膜を2季使う方法、水を撒て種を植える方法等畑作物の節水技術の普及に努め、現状に 合わせて春季作物生産の重要な時期の貯水、補水問題を解決する。

 寧夏自治区の中部旱魃地帯と南部山区の人口は全自治区の47%、耕地面積は77%を占める。そのうち、畑作地の面積は983万畝(ムー) で、この地域の耕地面積の86.4%を占め、大部分の地域の年間降水量は200㎜から400㎜の間である。また、降水の時期と場所は不均一で 、7、8、9月に集中している。この地域の農業効率を高め、農民の収入を増やすためのキーポイントは、現在ある水資源の高効率利用を実現 することである。  2006年以来、中部旱魃地帯で実施された国の畑作節水農業モデル事業は、集水灌漑、被覆保湿技術による特色作物の 栽培等を普及し、畝当り平均純収入が600元から800元に達し、伝統的栽培法の6から10倍となり、旱魃地帯の大面積で、畑作節水農業の 成功体験となった。
 先ごろ、国務院が打ち出した『寧夏経済社会の更なる発展を促進することに関する若干の意見』は、中部旱魃地帯畑作節水農業モデル 区、南部黄土丘陵区生態農業モデル区の建設を加速させることを提案し、中部旱魃地帯と南部山区農業農村経済社会発展の促進にと ってまたとない機会をもたらした。

  自治区党委、政府の“3つの100万畝”節水高効率農業建設に関する目標と要求に基づき、寧夏農牧庁は改革発展委員会、水利庁、 扶貧事務室等関係部門及び市、県(区)と合同で、調査研究と広範な意見を求めた上で、『中部旱魃地帯と南部山区被膜保湿集雨補灌 畑作節水農業2008年至2012年建設計画』(以下、計画という)を起草した。
 計画は、“生態移民計画”と“中部旱魃地帯100万畝黄河揚水高効率節水補灌計画”とを結合し、被膜保湿と集雨補灌を結合し、集雨 補灌プロジェクトと水資源高効率利用を結合し、補灌節水技術と特色農業発展を結合することを重視している。
 2012年までの見通しでは、中部旱魃地帯と南部山区の年間300mmから400mmと降水量の少ない地区に、11.4万ヵ所の集雨場、12.4万 ヶ所の貯水窟等集雨補灌の基礎施設を建設し、正常の年の状況なら、65万畝の畑作農地の被覆保湿、集雨補灌問題を安定的に解決 する。降雨量が比較的多い地区では、35万畝の被覆保湿畑作農業を安定的に発展させ、中部旱魃地帯、南部山区の被覆保湿、集雨 補灌畑作節水農業の面積を毎年安定的に100万畝以上とし、モデル事業が、畑作地域の馬鈴薯、瓜類、ビニール被膜トーモロコシ、向 日葵、生薬材、赤棗、草畜等の特色優勢産業発展を先導する。
 計画は、自治区の中部旱魃地帯と南部山区の塩池県、同心県、紅寺堡開発区、海原県、中寧県、原州区、西吉県、隆徳県、彭陽県、 涇源県等10県、73郷、581行政村、28.3万農家、145.6万人の農村人口を包含し、寧夏自治区中部旱魃地帯と南部山区を、全国畑作節水 農業モデル区建設を先導するモデル的役割を果たそうとするものである。

寧夏新聞ネット 2008年10月16日から                                   (文責:神田)

 13.固原市、旱魃地帯住民の富民政策を実施     

 9月3日、固原市改革発展委員会は、生態環境が劣悪で、居住条件が悪い地区住民の富民政策を策定し、今年から、固原市原州区、 西吉県等の20万人あまりの貧困な住民を移住させ、現住地では豊かになることが困難な問題を解決することとした。
 生態条件、自然環境条件、飲用水、地質災害等の制約を受け、固原の旱魃地帯の住民と“川区”住民との生活、収入水準の格差はま すます大きくなってきた。近年来、これらの地域に住む住民の生活水準は改善が見られないだけでなく、連年の旱魃続きで、人や家畜の 飲用水問題等が一層深刻になった。いかにしてこの地域に住む住民を豊かにし、生活水準を改善するかが目前に迫った重大問題となっ ている。
 次のような諺がある。“木は移動すれば死ぬが、人は移動すれば活性化する”。そこで、固原市政府は、これらの地域の生活状況を調 査研究し、生態移民としての移住と新農村建設を結合することを決定し、固原市各県は、居住に適合し、生態条件が良好で、居住と起業 が容易で、交通の便がよく、水源も豊富な村鎮を選んで移民地を建設するほかに、一部の住民は固原市以外に移民させる。

 現在、既に六盤山水源涵養林区の生態移民1万人の移住が完了した。これには原州区、隆徳県、彭陽県の8つの郷鎮の22の自然村がか かわっている。年末までに、原州区、西吉県の旱魃地帯の5郷鎮、6自然村の1,000人が移住する。2009年までに、旱魃地帯の20万人余りの 移住を目指している。新しい移住地では、政府が住民の住宅建設、電気、水、道路の開設を支援し、インフラ建設を改善し、移住区の農業 生産と生活条件を改善し、移民の収入増の方策を広げ、山区の生存環境に対する圧力を軽減し、貧困扶助開発と生態建設の両立を実現 する。

寧夏新聞ネット 2008年9月5日付け                                   (文責:神田)

14.涇源県の”土地銀行”は痩せた土地を富ませる

――農地移転の新しい試み、年平均3,000元/畝の収入

 「“土地銀行”に1畝(ムー;666.7㎡)を10年間貸付け、全部苗木を植えて、年平均3,000元の収入があれば、結構な儲けでしょう」。固原市 涇源県黄花郷羊槽村の土地合作社の馬得全社長は語る。馬さんが語る“土地銀行”とは、当県の農民が土地の請負経営権を移転して 土地を集中し、規模的経営をするなかで新たに模索された土地信用合作社のことである。

 涇源県は人が多く土地は少なく、耕地は全県で僅か26.4万畝で、農民一人当り平均2.5畝にすぎない。長年、大部分の土地の畝当りの 純収入は200元位のものである。今年3月、固原市で最初の農村信用土地合作社が、涇源県大湾郷瓦亭村で開業した。
 涇源県農経センター長の禹虎賽氏は、“土地銀行”は土地の規模化、産業化経営に有利であるだけではなく、庶民は土地から保障され た収入を得、安心して出稼ぎができ、農民と栽培大農家が共に利益を得ることができると言う。
 瓦亭村の村民は、現在223戸、1,060人で、耕地面積は1,110畝である。土地が痩せているうえ、青壮年労働力が多数出稼ぎに出て、 多くの土地が遊休地となっている。土地信用社設立後、村民が土地を信用社に預けると、土地の質に基づいて、農民には毎年1畝毎に 150元~200元の補償金が支払われる。村民の王斌さんは、「もともと土地の財産価値は僅か150元で、信用社に預けた後は、村民は固定 的な補償金の外に、栽培大農家にアルバイトに出ることもでき、また信用社は土地の収益に基づいて配当金を農民に支払う」。このように して、村民は毎年1畝の土地から500元を儲けることもでき、旱魃や洪水にかかわらず一定の収入を確保できる。黄花郷羊槽村の農民馬 得虎さんは、僅か数畝の土地を全て貸出し、家族5人全員が毎年新疆に出稼ぎに出て、一家の収入は2万元ぐらいである。

 現在、涇源県では3社の“土地銀行”が設立され、預かった土地は2,340畝で、全て苗木基地に使用されている。そのほか、当県の香水 河流域には3,100畝の良質な土地があり、土地の預入方式で経営生産能力のある大栽培農家に苗木経営をさせている。
寧夏新聞ネット 2008年10月29日付けから                                  (文責:神田)

15.寧夏・南部山区農業の被膜保水、節水増収

15.寧夏・南部山区の被膜保水と、節水増収
寧夏新聞ネット 2008年11月10日付け

 最近、寧夏南部山区及び中部旱魃地帯では、畑で秋季の被覆保水作業が盛んに行われている。固原市原州区では、既に5,800万畝 (ムー)の被覆を終わった。被覆保湿は、寧夏畑作節水農業の主要な方法の一つで、黄河揚水の補灌、集雨池による播種と結合して、 乾燥地帯の農業の増収、農民の収入増を推進する役割がある。寧夏は、5年以内に旱魃地帯に高効率節水農業100万畝を建設する 計画である。


固原市原州区開城鎮深溝村での、被膜保湿作業。(11月7日)


固原市原州区開城鎮深溝村での、被膜保湿作業。(11月7日)


固原市原州区開城鎮深溝村での、被膜保湿作業。(11月7日)

  http://www.nxnews.net/923/2008-11-10/37@339061.htm                           (文責;神田)

 16.寧夏の「中華・回族の郷文化圏」が国家級の文化産業モデル拠点の名誉称号を受ける               

 10月15日、寧夏中華回族の郷文化園、北京老舎茶館有限公司、陝西華県皮影文化産業群、深圳市騰訊計算機系統有限公司等全国 59の文化企業が、国家級文化産業モデル拠点の名誉称号を授与した。
 国家級文化産業モデル拠点の選出は、2002年に始まった。寧夏回族の郷実業有限公司は、寧夏回族自治区呉忠市に「中華・回族の 郷文化園」を建設し、6年かけて寧夏で初めての国家級文化産業拠点の栄誉を受けるまでに発展させた。
  「中華・回族の郷文化園」は、イスラム教の建築文化、儀礼文化、飲食文化、民俗文化、宗教文化、農耕、商業貿易文化等の展示を 特色としており、全国でただ一つ国家発展改革委員会の批准を受けて建設された回族とイスラム風情の文化園で、文化園の全体計画 建設面積は1,000畝(ムー、66.7ha)である。

  寧夏新聞ネット 2008年10月16日付から                                               (文責:神田)